今日はこれから夜勤。
17:00~翌朝9:15の長時間勤務。
日々ともに生活を送るのは家族だけでなく、施設の高齢者。
みな認知症を抱えている。
社会的にみれば弱者だ。
社会的弱者は、常に多様なリスクと背中合わせの毎日を送っている。
尊厳の侵害は、その中の大きな問題の1つだ。
尊厳という言葉の意味を深く理解することは、極めて難しい。
ここでは基本的人権とほぼ同義でとらえる。
たいていの健常者は、自分の生活を自分の意思決定によって進めている。
認知症高齢者が社会的弱者たる所以は、その機能障害による判断能力の欠如から、意思決定の多くを他人に委ねざるを得ない状況下にあることだ。
一般的に「介護」という言葉でイメージされる排泄や食事、入浴なども行為はもちろんのこと、一歩外に出る、という意思決定さえ叶わないことも多いのだ。
…出勤時間になったので、続きは職場で。。。
現在0:00過ぎ
皆が寝静まる事はないが、幾らか落ち着いた状況である。
介護負担という言葉が世に出るようになった。
終わりの見えない介護に苦慮し行き詰った末の結果、痛ましい事件が多く聞かれる。
介護保険制度上のサービス提供事業者内でも、同様の事件が実際起きている。
…「実の家族なのに。。。」、「仕事でやるのは当たり前。」という気持ちが、世の中の大半か。
実際の介護負担というのは、経験上とても重く、辛いものだ。
感情的な言葉や態度がつい出てしまうことも少なくない。
我々は専門職種だけに感情を統制することが職業倫理上求められるが、これが実際難しい。
感情とは突発的で、衝動的だ。
一方、介護という行為には一定の価値観も見いだせる。
介護される者から実際に感謝の言葉をいただくこともあるが、これは極めて副次的なものとして捉えている。
機能的に不全な部分を補い、自立に添うのが自分達の努めだが、これはどこか子育ての喜びに通ずるところがある。
自分のアクションによって、失われていた機能が回復する姿を目の当たりにするとき、とても誇らしい気持ちを抱く。
(話を尊厳に戻す)
先の東日本大震災の後、被災地の方々は否応なしに社会的な弱者に立場を置き替えざるを得なくなった。(表現が不適切であれば、陳謝します。)
周辺地域、日本国民および国際社会は、被災者に支援の手を差し伸べている。
この時、彼らの尊厳について最大限の配慮が必要だと感じる。
支援を提供する側の思いは、善意、使命感、義務、連帯感、職責、など多様である。
実際に労力を費やし、疲弊されている方々も多くいらっしゃることと思う。
負担と捉えている方も、喜びを感じている方もいることだろう。
復興支援という言葉からイメージされるのは、どうしても地域全体が対象で、世帯や個人ごとの支援制度という印象に欠く。
しかし昨日の福島県の原発周囲の住民の一時帰宅について報道されるように、個人ごと、世帯ごとに生活があり、その生活を再建するためには、それぞれに必要な支援が異なって然るべきだ。
この乖離が大きくなると、個人の尊重が損なわれてしまう。
尊厳が侵害される状況も懸念される。
(余談)
秋田県内の介護保険サービス事業所は、被災地への介護職員の派遣依頼をする旨の通知を受けている。
当事業所の運営に多少なりとも携わっているが、社会的責任を全うすべく事業所として出来る限り派遣登録をすべき旨の私見を、管理者へ伝えようと思っている次第だ。
実際派遣されるか否かは未定だが、一福祉関係者として派遣されるのであれば、何かを与える行為自体に悦に入ることなく、彼らが復興に向けて自立の道を進む姿に喜びを見出したい。
…難しい文章になってしまった。。。
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